理屈じゃないこと

西荻窪に戻ってきた。23時頃、西友に寄ったら60歳くらいと思われる浮浪者臭のするおじさんが、ブルゾンの中に食料品を詰め込んでいた。(バレバレの万引きをしていた。)
気の毒だなと思う気持ちと、臭いし自分の立ち寄るスーパーには来ないで欲しいな気持ち悪いわ、と、思った。
店員さんの少ない時間に食べるもの万引きしないと生きていけないって辛いな。
※※※
米の話。母方の在所では米を作っている。私も、爺さんが生きていて元気だった頃は、毎年、田植えと稲刈りの手伝いをしていた。
結婚するまで、一人暮らししていた時期を含めて米は買ったことが無かったが、結婚して暖かいマンションに住む場所が変わり、もらったコメから虫が湧くとう経験を何度かしてから、嫁さんの手荒れがひどいこともあり無洗米を買うようになった。
年始にお袋と話をしていたら、去年は、鹿が田んぼに入りいつもほど米が採れなかったらしく、契約先への出荷が優先されて私の実家でも今年に限って米を買わなければならなくなったそうだ。(叔父に代替わりしても両親は田んぼの手伝いをしている。もう45年くらいやってんのかな。。。)
米は作ったところの水で炊くと美味しいと思う。自宅の水道水で、爺さんの田んぼで作った米を食べても美味しくなかった。
亡くなった爺さんは、柔らかく炊いた米が好きで、炊き立て以外はほとんど食べなかったように記憶している。
「稲武の米は最高だ。」といつも言っていたが、確かに同じコメでも爺さんの家で食べる米は美味しかった。
それでいて、爺さんはいつもコップで冷やの剣菱を飲んでいたが、なぜ蓬莱泉を飲まなかったのだろう?値段が高いからか??しかし、剣菱も一升で2000円くらいだから、蓬莱泉の別撰とたいして変わらないぞ。同じ本醸造だし。
たまたま風呂で日本酒を読みながら、kindle oasis で日本酒の本を読んでいて、風呂上りに薫さんのツイートを見て、昔こと、数日前にお袋と話したことを思い出した。
要はこだわりになんだろうな。
風呂で飲んだ酒は、白鴻 の純米吟醸(BY2016 広島雄町 無濾過生原酒)
今飲みたいのは、三千櫻の純米R。
もう寝る。


実践 行動経済学

実践 行動経済学

純米酒を極める (知恵の森文庫)

純米酒を極める (知恵の森文庫)

成長とは

過去の日記をまとめて別のidに移して、ここでは最近のことしか書き残さないことにしてから、かなりの時間が経っていることに気づいた。
順番に過去の日記に遡って読んでみて、ここ数年悩みも同じであまり変化のない自分にも気づいた。
40前後から人生の折り返しを意識し始めて、最近では老化の一途という感覚がある。
44歳で老化の一途とか書いてしまうと諸先輩方に失礼な気もするがコンディションを維持することが難しい。
普通に生活しているだけなのに痛みを感じる部分がある。
体力的な理由で集中が持続できない。
そんな状態ではあっても人としては成長をしていきたいと思う。
しかし、成長ってなんだ?昨日よりより良く生きられることか?
覚えることより忘れることの方が増えている気がする。
昨日までできていたことが、いつの間にかできなくなっていることもある。
自分のなすべきこと、自分のしたいこと、どのような心持ちで最後を迎えたいか。

疲れた。疲れた。

人前で「疲れた。」などと呟いたら、親に叱られていたという人もいるらしいが、あー疲れた。疲れた。
なぜ、疲れているか振り返ると

  • 月曜日…特に疲れることはしていない
  • 火曜日…客先訪問の後に部下と蒲田で酒を飲んで布団に入ったのが25時
  • 水曜日…パートナー向けイベントに参加して人疲れ
  • 木曜日…会社の忘年会で10時近くまで錦糸町で飲んでいた
  • 金曜日…いろいろしていて26時に就寝

水曜日は朝5時起き、それ以外は6時起き、そりゃ睡眠不足になるなって感じだな。。。
週末に寝て取り返すのはあまりよくない習慣と本で読んで、直してみたいと思っていても、なかなか難しいな。

人の心

仕事が忙しくなると本が読みたくなる。
不思議なもので、GW、お盆、年末年始、、、長期の休みに本を読もうと思って準備していても、十分な時間があるときは読書欲が消えて、本を読みたくなくなってしまう。なぜ?
今年は入院をしている時に結構な量の本を読めたけれど、病院の個室のベッドでなにもすることが無かったからだと思う。
規則正しく日に三度の食事をとり22時には完全消灯の環境だったからだろうか?

昔、はてな100の質問とかプロフィールに載せているのがあったと思うけど、久しぶりにやってみたいなって思う。
自分のことを誰に知ってもらいたい、そういう気持ちと、自分がどんな人なのか改めて振り返りたいからなんだと思う。

新規部署の立ち上げで東京に出てきて、最初に正社員で採用した5名ではじめて退職者が出た。
自分が採用した人が会社を去っていくことは、今となっては珍しくない日常行事なのだが、何もないところから一緒にスタートしたメンバーが去るということで、いつもと違う感じがしている。
5年近く頑張ったものの、今の仕事(営業)がどうしても好きになれなかったようだ。
残念だなという気持ちと、誰であろうといつまでも一緒にいられるわけではないということが久しぶりに思い出されて、普段からその時が来た時に悔やむことが無いよう、人とは接していたいものだと改めて感じた。

義祖母の十三回忌で、嫁さんの実家で開かれた法事に参加してきた。
お坊さんが来て、般若心経と修証義を読まれて、少し雑談をして法事は終了した。その後、仕出しを食べて雑談をして解散した。
子供の時からこの歳になるまで、お経って意味も分からなく長いしこれって意味あるのかな?、ってずっと思っていた。
亡くなった方を思い出す日というか、向き合う日としては意味はあると思うけど、意味の分からないお経を聞いて何の意味がある?
仏壇に向かって、お坊さんがお経を唱えると、亡くなった人が楽になるわけでもなく、
これって生きている人のため、自分のためにお経を聞いている、もしくは唱えているのだから意味も分からずボケっとしていたり、まあそれはそういうものということで亡くなった方を偲べばいいちゅうもんかと。
仏壇の中から、集まってくれている人が見えてるなら、懐かしい顔が自分のために集まってくれてるのは嬉しいと思うけど。。。
自分が仏壇の中から眺める側になったら、難しいお経の意味なんてどうでいいから、まあ楽しく幸せであって欲しいと思うだけだろうな。。。
まあ、いいか。そんなもんか。(一応、日記を書く前に、修証義についてはネットで調べてみたことだけはメモにしておく。より良い生き方について書かれているようだ。)