京都に来てから3ヶ月が経った。

緊急事態宣言が出て外出機会も更に減った。1月の後半の週末は、昨年(厳密に言うと2019年末)に申込み期限を逃してしまった産業カウンセラーの受験勉強&テストを受けていた。

仕事にも徐々に慣れていくなか、小型二種(AT)の免許取得、産業カウンセラーの資格試験などのイベントも終わった。そういえば今の会社で一番長くお世話になった上司が1月末で会社を去ることになった。(これには驚いた)

試験勉強の中で、「病感」と「病識」って考え方を知ったのだが、ちょっとひねって「生感」「生識」という言葉を思いついた。

「生感」…自分が生きているという実感

「生識」…自分が生きているという認識

という感じかな。

たまに夜中に目が醒めて、「今の自分は生きているのかな?」「目が醒め瞬間までの空白の時間には、生感も生識もなかったな。。。」とかボンヤリ考えてまた眠ってしまうことが何度かあった。

あらためて、今の私にとって「生きている」という感覚、言葉をかえると「生感」は、朝、カーテンを開けて太陽の光を浴びることや、夜、冷たい空気の中湯上がりで銭湯から歩いて帰ってくる時間、高重量のバーベルを顔を真赤にして持ち上げている瞬間、とかなんだろうと思う。部屋を掃除してきれいになったと思う時間や、料理を作って素早く食事を済ませて食器を洗ったときとか。

 

この先、どっかにいくこと、なにかを成すことを考えるのと同時に、何かを感じながらちょっとだけ丁寧に生きることも、今の自分には、自分を保つためには大事な気がしている。