結局、すべてココロの問題

3連休中日

昨日は、甥っ子と姪っ子を5時間預かった。

通天閣界隈で串カツを食べさせ、なんばでたこ焼きを食べさせ、商店街をプラプラ歩き回ったが、最後は歩き疲れたのでラウンドワンメダルゲームをして時間をつぶした。

子供のペースに付き合うのは難しいので、子供にこちらのペースに合わせてもらうしか無い。

自分の幼少期、祖父と出かけた時のことを、今ふと思い出した。途中でお菓子を買ってもらったりもしたが、遊んでもらう時はいつも祖父のペースに合わせていたなーと思う。自分のしたいことを言葉にしても、決定権は常に大人の側にあったよな。一緒に相撲の中継を見たり(自分は、興味のない相撲中継を見ながらアイスクリームを買いに行く駄賃がもらえるのを待っていた)

たまの機会なので子供達の要望に100%応えたい気もするし、喜ばせるために何ができるかということも考える。しかしまとまった時間一緒にいると、子供達に対する自分の期待が、言葉の中に投影されることもある。親であれば指導する(叱る)、祖父であれば自分の責任ではない(親の責任)という気持ちで、甘く(優しく)もなる。

特に論理というより、感情の発露が先になり、なぜ自分が今、怒りの感情を覚えたのか、とっさにこういう行動をしたのか、振り返る機会が多くなる。

それもそれで、ただの一瞬のことで、心へのインパクトが一定値以下なら自分も子供も1つ1つの事象については忘れてしまう、はずだ。

 

3連休最終日

今日は、これから出勤して仕事する。行きたくない。やりたくない。

でも家で仕事すると、家も嫌な場所になってしまうから、会社に出る。

疲れている気もするが、仕事関連の気の重さが間違いなく影響していると思う。

昨日のことを書いていても、楽しい気持ちになれなく疲れた感じがするのも、これから仕事をすることが原因だろう。(一瞬、仕事が存在しないことをイメージしてみたら、なんだか疲れた感じも消えた。)